東山

 北山文化で開花した室町時代の文化は、その芸術性が生活文化のなかにとりこまれていき、あたらしい独自の文化として広く根付いていった。
足利義政、応仁の乱後、京都の東山に山荘をつくり、そこに義満にならって銀閣をたてた。
この時期の文化は、東山山荘にもとづく簡素さと、伝統文化の幽玄・侘びを精神的な基調としていた。
銀閣の下層および東求堂同仁斎にみられる書院造は、近代の和風住宅の様式のもとをなすものであった。
書院造の住宅や禅宗様の寺院には、また同じように禅の世界の精神で統一された庭園がつくられた。
岩石と砂利をくみあわせて象徴的な自然をつくりだした枯山水は、その代表的なものであり、この様式の名園として、竜安寺・大徳寺大仙院・西芳寺などの庭園が残されている。
また、あたらしい住宅様式の成立は、座敷の装飾をさかんにし、掛け軸・襖絵などの絵画、床の間をかざる生け花・工芸品をいっそう発展させた。
墨の濃淡で自然や人物を象徴的に表現する水墨画は、すでに北山文化のころ、五山僧の明兆・如拙・周文らによって基礎がきずかれていたが、この時期に雪舟がでて、その作画技術を集大成するとともに、禅画の制約をのりこえ、日本的な水墨画様式を創造した。
 大和絵では、応仁の乱後土佐光信がでて土佐派の基礎をかため、また狩野正信・元信父子は、水墨画に伝統的な大和絵の手法を取り入れ、あたらしく狩野派をおこした。
彫刻は、能の隆盛につれて能面の製作が発達し、工芸では金工の後藤祐乗がでて活躍するとともに、蒔絵の技術も大いに進んだ。
 日本の伝統文化を代表する茶道・花道も、この時代に基礎がすえられた。南北朝時代以後、各地で茶寄合や闘茶が流行したが、村田珠光がでて、茶と禅の精神の統一を主張し、茶室で心の静けさを求める侘びち茶を創出した。
仏前にそなえる花から発達した生け花も座敷の床の間をかざる立花様式が定まり、床の間をかざる花そのものを観賞する形がつくられていった。
一方、政治的にも経済的にも力を失った公家は、もっぱら伝統的な文化の担い手となって有職故実の学問や、古典の研究に意をそそぎ、一条兼良らは多くの研究所や注釈書を残した。
また神道思想の立場からする『日本書紀』など研究が進み、吉田兼倶は反本地垂迹説にもとづき、神道を中心に儒学・仏教を統合しようとする唯一神道を完成した。

庶民文芸の流行

 室町時代には、民衆の地位の向上により、武士や公家だけでなく、民衆が参加し楽しむ文化がうまれたのも大きな特徴である。
能も上流社会に愛好されたもののほか、より素朴で娯楽性の強い能が各地に根をおろし、祭礼などのさい、さかんに演じられた。
このころ、能のあいだに演じられるようになった狂言は、風刺性の強い喜劇としてとくに民衆にもてはやされた。
狂言は、その題材を民衆の生活などに求め、せりふも日常の会話が用いられており、当時の民衆の世界をよく繁栄している。
庶民にもてはやされた芸能としては、これらのほかに幸若舞・古浄瑠璃・小歌などがあり、小歌の歌集として『閑吟集』が編集された。
連歌は和歌を上の句と下の句にわけ、一座の人々がつぎつぎに連作して五十句・百句にまとめた共同作品であった。
南北朝時代にでた二条良基は『ツクバ集』を撰し、連歌の規則書として『応安新式』を制定したが、この『ツクバ集』が勅撰集に準ぜられてからは、和歌と対等の地位をきずいた。
さらに応仁のころ宗祇がでて正風連歌を確立し、『新撰ツクバ集』を撰集し、弟子たちと『水無瀬三吟百韻』をよんだ。
いっぽうこれに対し、山崎宗鑑がより自由な気風を持つ俳諧連歌をつくりだし、『犬ツクバ集』を編集した。
連歌は、kろえを職業とする連歌師が各地を遍歴し普及につとめたので、地方の大名や武士だけでなく、民衆のあいだでも愛好されて流行した。

また、大いに流行した物語に御伽草子があった。
御伽草子には、絵の余白に当時の話し言葉で書かれている形式のものが多くみられ、読むもの、話すものであり、絵を見て楽しむものであった。
今日もなお各地でさかんに行われている盆踊りも、この時代からさかんになった。
祭礼や正月・盆のときなどに、都市や農村で種々の意匠をこらした飾り物がつくられ、はなやかな姿をした人々が踊る風流が行われていたが、この風流と念仏踊りが結びついて、しだいに盆踊りとして定着した。
これらの民衆芸能は、多くの人びとが楽しみ、共同で行うことが一つの特色であり、当時、茶や連歌の寄合も多くもよおされた